甘くて、冷たくて



 昨日の夜の冷え込みが嘘のように、今日は暖かかった。急な温度変化に少しびっくりしながら、俺はラーメン
とソフトクリームを食べていた。
 ゴールデンウィークを利用して帰省したはいいものの、親は休日出勤、妹は部活で、俺が起きた午前十時の我
が家には、既に誰もいなかった。
 ペーパードライバーの俺は、運転の練習がしたいからと親に車の鍵を借りていた。家にいたところで大してす
ることもないので、とりあえず街に出るかとエンジンをかけたのだった。
 のんびりした車の中に、AMラジオの軽快なトーク。順調に流れる車の列にやや抑えめのスピードで乗りながら、
ご機嫌な俺は鼻歌交じりに車を転がしていた。自家用車が必須の田舎のことだから、幼いころから街へ行くと言
えば車だった。後部座席や助手席からしか眺められなかった風景がこうして運転席に座ると少し変わって見える
のが,なんとなくおかしかった。
 何もあてはなかったので、とりあえず駅近くのショッピングモールへと向かう。高校三年の頃に出来たばかり
だから、まだ新しい方だろう。それなりに見られる店もあるし、何より朝から何も食べていなかった。
 こういうところへくると、何がなくとも本屋・CDショップ・楽器屋に入ってみるのが俺の定番のコース。金
のない貧乏学生の事だから、ぱっと見てすぐ買う余裕なんてないけれど、眺めているだけでも結構満足出来でき
た。
 どの店も一通り見終わり腹が鳴り始めた頃に、俺はフードコートへと足を向けた。自慢じゃないが優柔不断な
俺は二回ほど店のラインナップを確かめ、結局ラーメンに落ち着いた。
 かつおだしの効いた豚骨らーめんに、白くやわらかなソフトクリームを注文。何も考えず同時に提供してくれ
るよう注文したはいいが、当然のごとくソフトクリームは溶ける。こちらの都合なんておかまいなしだ。しかし
ラーメンの合間に良く冷えた甘味を挟む気はなかったので、普段より五割ほど早いペースで麺を流し込んでいっ
た。
 八割方食べ終わりあと一息とお冷やを飲んだところで、目の前のソフトクリームがなくなっているのに気付い
た。ラーメンに取り掛かろうとした箸が自然と器に置かれる。
 その人は、いつのまにか居た。黒髪の、見覚えのある女性。ターコイズのチュ二ックにベージュのクロップド
パンツ。その手には、少しボリュームの減ったソフトクリーム。
「ナツコ先輩!」
 母校の文化祭で再会して以来だから、まだ半年ぶりぐらいだろう。それでも、久しぶりというには十分だ。
「よっ、若人。ソフトクリームってなんでこんなに旨いんだろうな」
 ああ、変わっていない。高校の文化祭実行委員会で知り合った一つ上の先輩は、いつだって俺の憧れのお姉さ
んだった。
「うちの店来たっしょ」
 さらに一口、白いクリームを口に運びながら、先輩が言う。先ほど立ち寄った楽器屋のことだ。一年前、俺は
そこでベースを買っていた。
「ひょっとしたら会えるかなと思って」
 言いながら、麺をずるずる。急がねば、アイスが溶ける。先輩の口の中で。
「またまたー。そんなんじゃ女は落とせないぞ?」
 いたずらっぽく俺を見てくる。先輩は立っているため、自然と見下ろされる形になる。
「ほへいなおへわでふ」
 麺を頬張ったまま口をもごもご動かしたが、当然言葉にならない。
「おや、突然日本語が不自由になったのかね?」
 わざとらしく気取って話しかけてくる先輩。ハムスターのように詰め込みすぎて若干つっかえながらやっとの
ことで飲みこみ、
「余計なお世話です」
 やっと言語化出来た。
 ふふ、と先輩は笑い、向いの席に座ると、
「ねえ、今日暇?」
 少し真剣な眼差しで問いかけてきた。
「暇じゃなかったら車の練習がてらこんなとこぶらついたりしませんよ」
 なんの気なしに目線をはずし、残り少なくなったラーメンをすする。
「あ、今日車で来てるんだ。よし、私を家まで送る任務を与えよう」
 口に入れたばかりの麺を危うく吹き出すところだった。目の前には弾けるような笑顔。
「どうなっても知りませんよ」
「あんたと死ねるなら本望さ」
 片手を上げた演劇のような振り付きで、ドラマチックに先輩は言った。その姿勢のままこちらに視線を送り、
また、笑う。
 俺の負けだ。軽くため息をつき、残りの麺を一気に箸ですくい上げた。
「あんたも相変わらずだね」
 少し懐かしそうに言いながら人差し指で僕の額を軽く突くと、先輩はどこかへ行ってしまった。敢えて目で追い
かけるようなことはせず、スープを味わう。
 ゆっくりとした3口目頃に、先輩は戻ってきた。右手にはほとんど残っていないソフトクリーム、左手には出来
たてのソフトクリーム。
「まだ食べるんですか」
 若干呆れつつ聞く。
「まさか。あんたの分よ」
 さも当然と言った風に差し出されたそれを、俺は無言で受け取った。
「あ、タクシー代込ね」
「これもともと俺が食べる分だったような」
「細かいことは気にしない」
「はいはい」
 憎めない先輩だ。相変わらず。

「道わかんないんでナビしてくださいね」
「もちろん」
 助手席に女の人を乗せるのは、口うるさい教官である母親を除けば初めてだ。しかし、下手にかっこつけて事故
なんて起こしたら笑えないので、俺は慎重に発進した。
「いいねえ、初心者らしくて。可愛い可愛い」
 先輩はクスクス笑っている。左右を確認するふりをしながらチラ見した先輩の笑顔が眩しくて、俺は慌てて目を
そらした。
「まずは右ね」
 ハンドルを右に切りつつ、アクセルを踏み込む。AT車の発進が楽で良かった。平和な空の下を、平和に滑り出す。
ラジオはいつの間にか音楽主体のFMに切り替えられていた。ゆるいR&Bの裏打ちのリズムが気持ちいい。
 印象的なフレーズを何度も繰り返す、明るい曲調。先輩が鼻歌でふんふんと合わせていた。ハンドルを握る指で
軽くリズムを取っていたら、ちゃんと掴んでてよ、なんて小さくふくれながら怒られたりして。
 隣に座るナビゲーターの指示に従い、車は街を離れ、郊外へと向かっていた。堤防沿いの一本道を、軽快に走る。
子供のころ高速に乗る時は大抵この道を使っていたな、なんて思い出しながら、のんびりした風景を通り過ぎて行
った。
「そこ左」
「ここで?」
「うん。なんで?」
「いや、別に……」
「さあ、上手に停められるかなー」
「あんまり自信ないっす」
「じゃあ敢えて何も言わないことにしよう」
「まったく、ひどいなあ」
 頭を振り、ギヤを変え、後退、前進、また後退。よし、入った。
「及第点、ってとこかな」
「そりゃどうも」
「行こうか若造」
「はあ」
 着いた先にあったのは、大型のアウトレットモール。郊外の安い土地を活かした、地域最大級の施設だ。俺も何度
か来たことはあるが。
「はーやーく」
 棒立ちの俺のもとへ戻って来た先輩の右手が、俺の左手を握った。小さくて柔らかい、けれど少しだけためらいと
遠慮の含まれた、そんな白い手。俺は、先輩の表情を見なかった。ただ、強く握り返した。
 
 映画を見た。名作ミュージカルを映画化した、明るい恋愛ものだった。コーラとジンジャーエール、そして特大の
キャラメルコーンを1つ。中段中央、一番見やすい席に、二人で座った。
 先輩は、よく笑う人だった。今も昔も、そこは変わっていない。チラリと横を見たが、大画面に夢中で俺の視線な
ど気にならないようだった。
 でも、最後は泣いていた。と言っても少し目が潤んでいた程度だけど。後で聞いたらただずっと画面を見ていたか
らだと言われた。
 映画が終わり、んうっと伸びをしたら脇腹をつつかれた。途端に力が抜ける。先輩がいたずらっぽく笑っていた。
「おなかすいた」
「あれだけポップコーン食べてたのに?」
「おなかすいた」
「はいはい」
「おいしいお店知ってるから、また運転手さんおねがい」
 両手を合わせて上目使いをされた俺は、逆らうことなどできなかった。
 
 着いたのは、ログハウスのような造りのイタリアンのお店だった。やわらかい橙色の照明が温かい。小さな店内は
程々に込んでいて、明るい声があちこちから聞こえる。
 奥の席に通され、メニューを手渡された。が、正直何を選んだらいいか分からない。先輩を見ると、少し笑いかけ
てきた。
「コースで頼んじゃおっか」
 どうやら先輩も同じ考えらしい。力なく笑い返し、語感のよさそうなものを注文した。流石にお酒はまずいので、
その旨も伝える。私もいらないと言いかけた先輩に自分は構わないと伝えたら、じゃあ遠慮なくとワインを注文。
 料理はどれもおいしかった。自然と会話も弾む。先ほど見た映画の音楽やストーリー、あんな恋愛をどう思うか、
主人公の一途な思いと迷う気持ち、能天気な第三者、そしてクライマックス。
 恋の話から彼女はいるかと聞かれたけど、正直にいないと言った。ちょっと気になってる人はいると口を滑らせると
根掘り葉掘り聞かれ、先輩はどうなんですかと聞く隙も与えてもらえなった。
 優しい甘さのティラミスを食べ終え、俺も先輩も美味しさの余韻に浸っていた。ワインのせいかほんのり紅い先輩の
頬が、白い肌に浮かんでいた。
「私、幸せ」
 ポツリと言った先輩の表情は、言葉と裏腹に少し寂しそうでもあった。気のせいだろうか。
「俺もですよ。ほんとにおいしかったし、今日は楽しかったです」
 うんうん、と先輩は頷いたが、ちょっと心が浮かんでいるようだ。
「そろそろ、行きましょうか。結構遅くなってますし」
「そうだね」
 俺も先輩も立ち上がり、会計に向かった。財布を出そうとしたら、視線で制止されてしまった。
「今日一日私に付き合ってくれたから、ここは出させて」
 と言うと、口を挟む前にてきぱきと支払ってしまった。流石に悪いと思って食い下がると、もう一つだけ頼みたいと
いう。
「今度はどちらまで?」
「ちゃんとナビするから、素直に従ってくれればいいよ」
 とろんとした眼の奥には、力があった。俺は黙ってキーを回した。

 指示通り、昼頃通った堤防を昼とは逆方向へ進む。昼よりも車通りは少ない。時折大きなトラックとすれ違うぐらい
だ。
 月と、いくつかの明るい星が見えた。走行音とボリュームを絞ったFMラジオ以外に、車内で音を立てるものはなかっ
た。
 街のバイパスに少し合流し、少し行ったところで右折。また、街から離れていく。道沿いには、看板の照明がもう消
された店舗もいくつかあった。
「次の信号左ね」
 うとうとしていた先輩が、また、指示を出した。五百メートルほど先には、高速道路の陸橋が見える。
「右側のその駐車場入って」
 言われたとおり右折し、適当な場所に停める。しかし、エンジンは切らなかった。
「先輩、本気ですか」
「私はいつだって本気よ」
 安っぽいネオンが、目の前の建物の上で光っている。月も星も、隠れてしまった。
「ねえ、こっち見て」
 助手席からの呼びかけに応じると、唇にふわりとした感触があった。先輩の顔が、近付き、触れ、離れていった。
「ふふ、ひょっとしてはじめてだった?」
 艶っぽいって、きっとこのことなんだろう。暗がりのすぐ向こうには、女がいた。
「初めてじゃないですけど、でも……」
「なあんだ、ちょっと残念。ま、いいや。行こう」
 ドアノブに手をかける先輩の右腕を掴み、俺は引き留めた。半ドア状態で、先輩は動くのをやめた。
「ここでしたいの?気が早いなあ」
「気が早いのは先輩の方です」
 体の奥が疼き、性欲が昂るのを理性で抑えながら、俺は冷静に話そうとした。
「恋愛の話になった時、俺に聞いてばかりで先輩は何も話してくれませんでしたよね。何かあったんですか?」
 無言。掴んだ右腕から力は抜けない。
「何かあったんですね。俺でよければ聞きます、話してください」
 再び無言。しかし、右腕の力は抜かれた。先輩はドアを静かに開き、軽く勢いをつけて閉じた。
 ふーっ。先輩は、長い溜息をついた。俺は何も言わず、ただ、待った。
「……タカシの事、覚えてる?」
「もちろん、覚えてますよ」
 タカシ先輩はマツコ先輩と同学年で、俺が知りあったのは部活が先だった。先輩は生徒会もやっていたので、文化祭の
準備期間には一緒に作業することが多かった。
「アイツと私は、まあ付き合ってたわけよ」
「はい、知ってました」
「だけど私さ、ワガママだから、ある時タカシが疲れてるのに遊びに行きたいとか駄々こねてて」
 なんとなく、想像はつく。 
「喧嘩、ですか」
 高校の時から付き合っているのは知っていたし、別段本人達も隠そうとはしていなかった。タカシ先輩はみんなに優しか
 ったし、何かにつけてみんなを笑わせようとしてくれる明るい先輩だったから、当然人気もあった。
「いつもならしょうがないなあとか言いながら笑って聞いてくれるんだけど、その時は本気でキレられちゃって。私そんな
 返し方されたの始めてで、どうしたらいいかわかんなくなって」
 あの人が本気で怒るところなど、想像できない。先輩はじっとうつむいている。顔にかかる長い髪を見ながら、俺は先を
促した。
「その日はそのまま帰って来たんだけど、どう接したらいいかずっと悩んでた。メールすら送れなかった。せめてあの時、
 一言でも謝ってればよかった」
 人が泣くのを、俺は久しく見ていなかった。小説やドラマの中だけの、架空のものという感覚すらあった。
「一週間ぐらいうじうじしてたら、タカシの方から連絡くれて。でもダメだった、そんな優しくしてもらえる価値なんて私
 にはないと思った」
「それで?」
 努めて冷静に答えたつもりだった。が、無表情なはずの自分の声に、かすかに嫌悪の響きがあるにも気付いていた。
「俺と話するの辛い? ってタカシに言われた。辛くなんかない、ただ接し方が分からないって答えた」
「それに対してタカシ先輩は?」
「接し方の分からない人間といても疲れるでしょ、って。だから別れようって」
 しゃくりあげる回数が増え、だんだんと言葉がはっきりしなくなってきた。それでも、俺は待った。
「私のわがままが原因だったから、何も言う資格はないと思った。だから、言われたままを受け入れたの」
「そうですか……」
 俺は一度、言葉を切った。先輩は、まだ泣いている。一呼吸置いて、俺はまた口を開いた。
「で、俺は代用ってわけですね。言う事は聞く、意見には同意してくれる、好都合な事に車まである。便利な後輩ですね」
 今、押さえるべきは性欲でなく怒りだ。肉棒など、とうの昔に萎えてしまっていた。
「彼氏に振られたから偶然会ったガキを使ってまたワガママを振り回したわけですね。なんなんですか全く。僕は二十四時間
 いつでも笑っていられる人形じゃないんです。タカシ先輩もそういうところに嫌気がさしたんじゃないですか?」
 先輩は何が起きているのか分からないといった顔をしている。目は虚ろだし、口は半開きだ。
「正直失望しました。俺が好きだった先輩がこんなに小さな人間だったなんて。こんな底の浅い人間を俺は好きだったんだっ
 て。あなたよりも自分自身にがっかりですよ」
 車が一台、駐車場に入ってきた。男と女。愛と欲。明と暗。
「そんな弱みに付け込んで襲ったところで気持ち良くとも何ともないんです。憂さ晴らしだかなんだか知りませんけど、男は
 やれればいいなんてもんじゃないです。相手のことをもっと考えてください」
 次第に、声が大きくなる。
「……ごめん」
 普段の先輩からは想像もつかないほど、か細い声だった。 
「俺に謝ったってしょうがないんですよ。謝るならタカシ先輩にです。まだ好きなんでしょう?」
「……ごめん」
「だから、俺じゃなくて」
「ごめんなさい……」
 先輩は俺の方に崩れかかってきた。黙って受け止めた。俺自身、怒りと悲しみでいっぱいだった。大好きだった先輩。輝いて
いた先輩。いつも元気一杯だった先輩。
 それなのに、今こうやって、弱さを、醜さをさらけ出して。その上、俺はそれを責め立てている。ただの第三者にすぎないの
に。いち後輩に過ぎないであろう、ちっぽけな存在なのに。
 
「抱いては、くれないのね」
「ええ。例え恥をかかせることになろうとも、ね」
 どのくらい、時間が経ったのだろう。静かに泣き続ける先輩と、静かに座っている俺。あれから何台の車が入っていき、何組の
カップルが身体を交え、何台の車が出ていったのか、知る由もなかった。
「でも、そんなとこ嫌いじゃないよ」
「今の俺は今のあなたが大嫌いですけどね」
 冷たく言い放った。つもりだ。先輩は、力なく笑ったようだった。
「家まで、送っていきますよ」
「ありがとう、助かる」
 エンジンをかけた。駐車場から出て、大通りに合流する。月は、雲に霞んでいた。